出版物の紹介:『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著)
『沈黙の春』
(レイチェル・カーソン著,新潮文庫 710円+税)
人工物による自然生態系汚染を考える「原典」
本著を読むのは何度目だろうか。大学生で初めてページを開き,環境問題をテーマにしていた記者時代も何度も読んだ。筆者が幼い頃に出版された本だが,内容は古びておらず,読むたびに新たな発見がある。
本著は,感染症を抑えるなど,殺虫剤・殺菌剤として人間の生活に大きな便益を与えた化学薬品(主にDDT)が,自然のバランスを崩し,生物にも害を及ぼす,恐るべき因子であったと告発した。告発というと大げさに聞こえるだろうが,著者にはかなり覚悟のいることだったと思われる。本著の解説によると,著者は,大学院で動物学を専攻し,学位を得てからアメリカ合衆国漁業局に勤めていた公務員だった。本著を書いたとき(原著刊行は1962年)は官職を退いていたものの,元官吏が,米国政府が許可した農薬を含む化学薬品の使用が自然生態系を破壊し,人間の健康も損なっている,と警告を発したのだ。本著の公表によって,著者には政府や化学メーカーなどから激しい非難があったようだ。
化学物質は,海洋にも流れ込み,海洋生物に取り込まれている。またプラスチックが細かく砕かれた断片であるマイクロプラスチックに付着し,生物の生体内に吸収され,悪影響を与えている可能性も指摘されている。そもそもプラスチックには添加剤としてさまざまな化学物質が入っている。化学物質とプラスチックはけっして無関係とは言えない。
本著にある事例の一つがとくに目を引いた。カリフォルニア州にあるクリア湖で,血も吸わない小さなブユを防除するために,DDTに似たDDD(塩化炭化水素の殺虫剤)を,水の7千万分の1となるように薄めて湖に撒いた。ブユはほとんど全滅した。しかしカイツブリが死に出した。その脂肪組織を分析すると,1600ppmという異常に濃縮したDDDの蓄積が検出された。
この事例に触れ,著者はこう語る。
「まさに因果はめぐる――プランクトンが水から毒を吸収する。そのプランクトンを草食類が食べる,すると,その草食類を小さな肉食類が餌食にする,すると,その小さな肉食類を大きな肉食類が食べてしまう。」(70ページ)
そのうえでこう記す。
「どこまでもたち切れることなく続いていく毒の連鎖,そのはじまりは,小さな,小さな植物,そこに,はじめ毒が蓄積された――そう考えても間違いはないだろう。だが,この連鎖の終点――人間は,こんなおそろしいことがあろうとはつゆ知らずに,クリア湖から魚を釣りあげてきて,夕食のフライにする。大量のDDD,それもくりかえしDDDを口にすれば,どういう結末になるのだろうか。」(71~72ページ)
「DDDは人間の副腎皮質をひどく冒す,という。」(72ページ)
このような食物連鎖はプラスチック汚染でも重要なポイントの一つでもあるのだ。
湖にあるものは川に流れ,それは海にも達する。著者は,人間にとって多くの恵みを与えてくれる淡水や海洋について危機感を募らせる。
「淡水,海洋漁獲は大切な資源だ。たくさんの人たちの生活,健康にかかわるきわめて重要な資源なのだ。私たちみんなの水に,川に湖に海に化学薬品が入ってきて,禍いを及ぼしつつあるのは,もはや疑うまでもない。もっと有毒な薬品を,もっとよくきく薬品を,と求めることをやめて,その開発費用のごく一部でも建設的な研究にふりむければ,危険度の少ないものを使って,みんなの水から毒をしめ出せるかもしれない。だが,ことの真相を知って,みながそのような声をあげる日はいつのことか。」(204ページ)
プラスチックによる海洋生物や人間への重大な悪影響の存否が,科学的に明らかになっていない中,次のように指摘することは語弊があるかもしれない。だが,あえて書きたい。「予防原則」と思ってほしい。上記の「化学薬品」を「プラスチック」に,「もっと有毒な薬品を,もっとよくきく薬品を」を「もっと便利なプラスチックを,もっと安いプラスチックを」に入れ替えると,現代社会のプラスチックをめぐる社会状況を的確に言い表しているのではないだろうか。
化学物質汚染もそうだが,プラスチック汚染に対しても,科学は何ができるのだろうか。特に,海洋プラスチック汚染に関する研究は最近になって注目を集めるようになったが,その知見の蓄積はまだ少ない。著者は,化学物質に頼らずに,自然の力をうまく利用した,新しい学問「生物学的コントロール」の必要性を訴えたうえで,ジョンズ・ホプキンズ研究所の生物学教授カール・P・スウォンソンの言葉を引用して,科学に期待を寄せていた。
「《サイエンスとは,およそいかなるサイエンスでも,川の流れのようなものだ。大河もそのはじまりはちょろちょろ流れる水で,それもどこから湧き出るのかわからぬことが多い。静かに流れるかと思うと,はげしく早瀬を下ることもある。川原のあらわれる日照りのときもあるが,大水が押し流れることもある。サイエンスも同じなのだ。ひとりひとりの研究の力を集め,またいろんな考えの流れを組入れて成長していく。さまざまな概念と帰納の結果によって,サイエンスという川は,深みをまし,ひろがっていく》」(355ページ)
海洋プラスチック汚染の研究は,物理学や化学,生物学などを結集した学際的なサイエンスだ。スウォンソンの言葉のように,これからの研究の進展が問題解決につながることを期待したい。
(文責 三島勇)