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2021.01.09

環境と持続可能性を考える -3-:国外の情勢(2) 「2000年の地球に関する大統領への報告書」から「持続可能な開発」へ

 1972年の「成長の限界」は環境に関しての問題意識を喚起したが,それを決定づける報告書が1980年に公表された。ジミー・カーター大統領から委託されて,米国政府が取りまとめた米国政府特別調査報告書「2000年の地球に関する大統領への報告書」(*1)である。米国大統領が環境の状況を調査することを命じたことは,一つには環境戦略が今後の国家あるいは外交戦略にとって重要であり,環境情報が戦略上有用であることを意味する,そうした時代の始まりでもあった。そのことを米国は1980年の時点で明確に持っていたということである。

 この報告書の中で,世界の人口増加,資源利用や食糧需要などの様々な方面で人間活動の影響予測が示された。2つ例を挙げると,まず気候変化である(*2)。人間活動が気候を変える潜在的能力を持つに至ったにも関わらず,効果的な対応にむけた知識や技術は不十分な状態であり,対策のための制度が欠けているとしている。そして国立科学アカデミーの報告を引用し,地球規模でのエネルギー政策の再評価を迅速に始めたとしても,2000年まであるいは若干の後には二酸化炭素濃度が重大な意味のある変化をすると指摘していた(*3)。当時は大気中の二酸化炭素濃度の上昇が何によって生じているのかは不確定であった。そうした中で,いち早く地球環境問題として取り上げていたのがアメリカだった。

 もう一つは海洋環境だ。その中から取り上げるとすれば沿岸開発と化学物質汚染である。海産生物の多くが生活史のいずれかの時期を過ごす河口域,塩性湿地や干潟,マングローブ域,サンゴ礁域などに依存していることから,これらの水域の消失が続けば悪影響は確実に現れるとした。また,海洋汚染は油と放射性物質を除けば当時国際的規制がなかったが,報告書では日本の水俣病について1939年の水銀汚染の始まりから1973年に熊本地裁判決までの34年間を年表で示し,社会的対応が遅れるとどのような影響が生じるか明らかになるまでに時間がかかり,対策が後追いになるので,その前に適切な処置が必要としている。つまり,予防原則によるリスク管理を,この時代に先取りする形で提唱していた。

 二つの報告書,この報告書と前稿で紹介した「成長の限界」は,現状の経済活動を続けることに根本的な問い直しを生じさせた点で重要であり,欧米諸国における環境感の転換に大きく寄与したと考えられる。とはいえ環境の問題が世界的に認識されはしたが,その対策がすぐに進んだわけではなかった。むしろ人間の技術開発,産業の大型化,移動が活発化するほどに新しい問題は発生した。

 そうした中1974年,フロンガス(クロロフルオロカーボン:CFC)は成層圏で分解されて塩素原子を放出し,触媒となった塩素によってオゾンを破壊することを指摘した二つの論文が発表された(*4)。当時,安価な冷媒として冷蔵庫などで多用されていたフロンガスが廃棄物処理作業の途中で大気に漏れ出して,オゾン層を破壊する「オゾンホール拡大」の原因となり(*5),延いては宇宙から届く紫外線量を増やす可能性があることが示唆された。1977年,米国環境保護局はフロンガスの使用を禁止。1985年になると国際協力の枠組み「オゾン層の保護のためのウィーン条約」が結ばれ,後に1987年のオゾン層破壊物質全廃に向けた「モントリオール議定書」が採択された。1974年に二つの論文が発表されてから,国際的な規制まで13年で合意したことは,地球規模での環境対策について国際協調が異例の速さで機能したといえる。これは国際社会が一斉に取り組めば環境問題は解決できるという最初の成果といえる。

 一方で国際社会全体として身近な不安要素が1960年代から1980年代を通じていくつも存在した。例えば,「放射能汚染」である。第二次世界大戦以後の1947年ごろに始まった米国とソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の間での冷戦下では高性能な核兵器の開発が推し進められていた。南太平洋で行われた水爆実験によって,1954年,マグロ漁船「第5福竜丸」乗組員が被曝したことは知られている。1962年にはキューバ危機が発生し,核戦争への不安が一気に高まった。また,原子力発電所の放射能漏れも危機感を高めた。1979年,アメリカ・ニューヨークの西に位置するペンシルベニア州で起こったスリーマイル島原発事故である。さらにソ連で起こった1986年のチェルノブイリ原発事故(所在地は,現在のウクライナ)では,放出された放射性物質が発電所火災で上空に舞い上がり,ヨーロッパの広い地域に拡散した。

 さらに「資源の枯渇」は「成長の限界」で指摘されていたが(*6),社会が共有した心理的不安の一端は中東の政情不安定化にあったといえる。1973年に勃発した第四次中東戦争において,石油輸出国機構(OPEC)の中東6カ国は原油の公示価格を引き上げるとともに,アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が親イスラエル諸国への石油輸出規制を行った。このことで先進工業国を始め,世界経済に大きな打撃を与えた。この第一次オイルショックによって,日本では1955年から続いた経済の高度成長期に終止符が打たれた。さらに1979年のイラン革命による第二次オイルショックが発生。石油生産量の減少は必ずしも石油資源の枯渇には結びつかないのだが,社会不安をかきたてることになり,「エネルギー危機」が叫ばれた。こうした背景から,エネルギーの大量消費を見直す機運が高まり,この時期を境に燃費効率や省エネ技術が商品性能の差別化にまであげられるようになった。しかしながら,世界全体として,特に先進国では経済活動の成長期でもあったため,消費活動が増加し化石燃料の消費は上昇していった。

 そうした中,1982年,国連人間環境会議10周年を記念して国連環境計画(UNEP)の管理理事会特別会合がケニア・ナイロビで開催された。このナイロビ会議が契機となり,1983年の国連総合は「環境と開発に関する世界委員会(WCED: World Commission on Environment and Development)」の設立を決議,1984年同委員会(通称,ブルントラント委員会)が発足した(*7)。

 WCEDは1987年の国連総会に宛てた報告書「我ら共有の未来(Our Common Future)」の第1章「危機に瀕した未来」の冒頭で「20世紀半ばで私たちは宇宙空間から自分たちの惑星を初めて見た。この光景は,地球が宇宙の中心ではないということを明確にすることで人類の持っていたイメージを塗り替えたコペルニクスの転換が成し得たことよりももっと大きな衝撃を持っていたことに,歴史家はやがて気づくことになるかもしれない。宇宙から,私たちは小さくて壊れやすい球体を見る,それは人間活動や第建造物によって支配されているのではなく,そこに見えるのは雲,海,緑,土の模様で覆われている。その模様の中に人類の活動を無理に入れ込もうとすることは,根本的に惑星のシステムを改変する。そのような改変の多くは生命に関わる危険とつながっている。この逃げ場のない新しい現実は明確に認識され,管理されなければならない。」(著者訳)と述べられており,もはや地球環境は人類の責任であることがにじみ出ている文言になっている。

 そして報告書は「環境問題は政治的な課題」であること,そして重要なのは「個別にある環境課題はそれぞれが個別の案件でなく,どこかで必ず繋がり,開発との関連を切離できない問題」であることを明確に指摘している。この報告書の中で提唱された概念「持続可能な開発(あるいは発展)」(*8)はのちにリオ・デ・ジャネイロの国連環境開発会議(UNCED:通称「地球環境サミット」)の開催につながっていった。

(文責:野村英明)

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注*)
  1. 2000年の地球に関する大統領への報告書: 原文名「The global 2000 report to the president: entering the twenty-first century」という。ちなみに,生物多様性を環境問題として扱った報告はこれが最初と考えられる。
    原文はアメリカ政府印刷局: https://www.govinfo.gov/content/pkg/CZIC-hc79-e5-g59-1980b-v-2/html/CZIC-hc79-e5-g59-1980b-v-2.htm
    西暦2000年の地球~アメリカ合衆国政府特別調査報告~(アメリカ合衆国政府編),1. 人口・資源・食糧編,2. 環境編,逸見謙三・立花一雄監訳,家の光協会,1981,1982年。
  2. 気候変化: Climate Changeを日本では気候変動と訳しているがこれは誤認しやすいので今からでも正すことが望ましい。IPCCの報告書では気候変動と気候変化は厳密に分けられている。まず,「気候」とは,長期集計データによる統計に基づいて一年のある時期に生じやすいと予測される現象をいう。「気候変動」とは,長期集計された気象要素(降水量や日射量など)の平均値付近の揺らぎ幅の大きさのこと。「気候変化(Climate Change)」とは,少なくとも数年以上にわたり続いた気象学的状態が変化することをいう。
     気候変動が大きくなっても平均値が変わらないのであれば気候変化にはならない。しかし,変動しつつ異なる状態に移行していけば気候変化となる。数十年規模の長期周期の変動もあるので注意は必要。ちなみに,「天気」というのは,ある時間帯に大気中で生じた現象をいう。
  3. スェーデンのスヴァンテ・アレニウスが大気中の二酸化炭素濃度が2倍になった時の気温上昇を計算した1896年から約60年。1958年になって,ハワイのマウナ・ロア火山で二酸化炭素の精密測定が開始されたが,そのモニタリング結果は大気中の二酸化炭素濃度が上昇していることをしめした。この発見が契機となり,1988年,国連環境計画(UNEP)と世界気象機関(WMO)によって,気候変化に関する政府間パネル(IPCC: Intergovernmental Panel on Climate Change)が設立された。
  4. MJ Molina & FS Rowland(1974): Stratospheric sink for chlorofluoromethanes : chlorine atom-catalysed destruction of ozone. Nature, 249, 810-812.
    RS Stolarski & RJ Cicerone(1974): Stratospheric chlorine: a possible sink for ozon. Canadian Journal of Chemistry, 52, 1610-1615.
  5. オゾン(ozone): 酸素3原子からなる分子。成層圏の中で生成され,地表面に達すると人間や環境に有害な紫外線(UV)を遮断して保護する役目を果たしている。地表から約100 kmの成層圏に分布,特に50-30 kmで濃度が高い。強いUVを受けて酸素原子1個と酸素分子1個から生成されるが,不安定な物質でUVによって再び元に戻る。オゾン層と大気中の酸素分子で,UV-C(波長280-100 nm)は完全に吸収され,地表には届かない(UVは波長が短いほど人間には有害)。UV-B(315-280 nm)も一部は吸収される。UV-A(400-315 nm)はほぼ地表に達する。オゾン層の破壊の影響はUV-Bの増加につながり,皮膚ガンを生じさせるとされている。
     オゾンそのものは生き物に有害で,酸化力が強く,殺菌などに利用される場合がある。なお,フロンガスの代替として1980年代後半からハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)やハイドロフルオロカーボン(HFC)が使用されるようになった。HCFCの登場後に使用量が増加したHCFCはオゾン層に影響しないものの,温室効果が二酸化炭素の1.5万倍あり,1997年の京都議定書の削減対象となった。
  6. 「成長の限界」の著者らは1971年から20年間について再計算し,1992年に「限界を超えて」を発表。この中で成長の限界とは地球が有限であるということを意味している。人口も経済も地球から得られる空気や水,食糧,原料そして化石燃料に依存し利用して,汚染と廃棄物として排出して地球に戻している。したがって,原料やエネルギーの供給源の限界と汚染や廃棄物の吸収源の容量が限界に達しており,経済活動によっていくつかの項目で物理的に持続可能な速度を超えてしまったことを指摘した。しかしながら,これまでと異なる技術の刷新的革新,自然が処理できない汚染や廃棄物を生産しないという社会的合意などのいくつかの選択肢は残されているとしている。
    「限界を超えて-生きるための選択- (原題:Beyond the limits: Confronting global collapse, envisioning a sustainable future)(DHメドウズ,DLメドウズ,Jランダース著,茅陽一監訳,松崎隆治,村井昌子訳)」,ダイヤモンド社,376 pp.
  7. ブルントラント委員会: スェーデンを中心とした北欧諸国の働きかけによって設立が決まった。設置当時の委員長がブルントラント女史(後にノルウェーの首相)であったことによる。ブルントラント氏は1970年代にノルウェーの環境大臣として種々の国連会議に出席していたが,1983年,当時のデクエヤル事務総長に打診され,委員会の設置とともに委員長に就任した。
    Our Common Future"(我ら共有の未来)
     環境省による概要:
     https://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_04.pdf (2020年10月29日閲覧)
    Our Common Future原文:
     https://sustainabledevelopment.un.org/content/documents/5987our-common-future.pdf(2020/10/27閲覧)
  8. 持続可能な開発あるいは発展(Sustainable Development): 立場によって様々な概念が提出されている。ブルントライト委員会の報告書は環境保全と開発の関係について,「将来の世代の欲求を満たしつつ,現在の世代の欲求も満足させるような開発」という「持続可能な開発」の概念を打ち出した。この概念はその後の地球環境保全のための取組の重要な道しるべとなった。
     持続性と開発という相反するような言葉で織りなされる,やや玉虫色の定義ともいえる。宮本(2007)は,「科学的研究の産物というより,地球環境の限界と現代の文明の根底にある資本主義経済との矛盾を回避するための政治的妥協として登場したもの。科学的検証を経たというよりは,未来社会への願望を表したもの」としている。
    宮本憲一(2007):環境経済学新版.岩波書店,390 pp.